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![]() 第51号 |
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会長 風 岡 正 明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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![]() 本会の会長となって一年余りが経ちました。その間、各部・各年次等で開催された幾つかの行事に参加する機会を得ました。特に同一年次の会では、時を同じくした者同士で話がはずみ、和やかな雰囲気が印象的でした。しかし、これらの活動は同窓会全体の中ではほんの一部のことで、役員を初めすべての会員の方々のご理解ご協力のお陰でそれぞれの会の運営がなされていることは間違いありません。この場をお借りして感謝申し上げる次第です。 さて、恐縮ながらここで私事を少しお話させていただいて会長のあいさつに代えたいと思います。 私は愛知教育大学に34年間、書道の教員として勤めました。63歳で定年を迎えて教員としての立場ではなくなりましたが、一個人の書家としての活動、いわゆる展覧会活動は以前と同様、あるいはそれ以上に行っているのが現状です。規模の大小は様々ですが、おおよそ月に一回の割合です。 「書」を書くには言葉の選択は大事です。何を書くかで書の価値も変わるような気がします。しかし、「書」を書くということは言葉の意味を伝えたいというだけではなく、また巧みに書ければ良いというものでもありません。何が表現したいのかというなら、ある言葉を選んでそれを「書」として書こうと決めたときに、想い浮かんでくる書的なイメージとしか言いようがありません。それが一枚で仕上がればもちろんいい訳ですが、大抵の場合は何枚も書くことになります。そして最終的に一つを選ぶ際に、これで本当にいいのか自問自答します。そんな時に思い出すのが『論語』雍也篇に出てくる「女画(女は画れり)」という言葉です。 孔子の弟子冉求が自分の力不足を嘆いたときに、師は「力の足りない者は、進めるだけは進んで、中途でやめることになるが、今のお前は自分から見きりをつけている」と励ましました。 筆をおこうとしたとき、今あるものが自分の最善を尽くしたものかどうかを自己に問います。そこで止めてしまったら自分で限りをつけることになるのではないかと見直します。 自分が自分に見きりをつけるのは、その本人だけの問題ですから、人に迷惑が及ぶものではありません。しかし、時に自分が人に見きりをつけていたのではないかとふと思うことがあります。自分の限度さえよく分からないのに、なおさら人の能力をそう簡単に限れるものではありません。 大人でも子供でも、書の指導を長く続けていると、それまで遅々としてなかなか上達しなかった人が、急に上手になってはっとさせられることがあります。どんな時にそうなるのかは分かりません。唐代の書論の中に「時然一変」(時が熟すとがらりと変わる)の語がありますが、進む速さは人によって様々です。教育の現場においてはそれこそいろいろな子供たちがいるでしょう。あきらめず、長い目で見守っていくことが大事なことだと思います。 |